こんにちは、tamです。
マオリと言えば、伝統的なハカ(舞踊)や特徴的なタトゥーが有名ですね。ここではニュージーランドの先住民であるマオリについて詳しく見ていきたいと思います。
マオリってどんな民族で、いつからいるの? イギリスと戦争したの? 伝統的な食べ物はあるの? そんな疑問に一つ一つ答えていきます。
マオリの歴史と現在を、ぜひ一緒に紐解いていきましょう。
まずはマオリの歴史から見ていきましょう。
アオテアロア(マオリ語でニュージーランド)を発見し、現在もニュージーランドに生きる彼らの視点から歴史を紐解いていけば、それはそのままニュージーランドの歴史とも言えることでしょう。
そもそもマオリってどういう意味?
アオテアロア(ニュージーランド)の発見(9世紀-12世紀頃)
ニュージーランドは航海者で探検家のクペ(ポリネシア人)がハワイキ(クック諸島やタヒチ周辺の南太平洋ポリネシアのどこかの島:ポリネシア人の故郷と言われている)からやってきて発見したと言われています。
その後ハワイキに戻ったクペからニュージーランドの存在を知ったポリネシア人は7つの艦隊(ワカ・ホウルア)を組成してニュージーランドにやって来ました。
この7艦隊は「タイヌイ」、「テ・アラワ」、「マタアトゥア」、「クラハウポ」、「トコマル」、「アオテア」、「タカティム」の7つで、現在でもマオリはどの艦隊でニュージーランドにやって来たかを重視しており、家系はこの7艦隊まで遡ることができます。
ポリネシア人って?
モアはかつてニュージーランドにいた3メートル近い最大の鳥類で、ダチョウのような見た目をしている飛べない鳥です。
※モアとモアを襲うハーストイーグル
もともと陸生の哺乳類がコウモリ以外にいなかったニュージーランドでは、モアの他にもキーウィやタカへなど飛べない鳥が見られます。
マオリがニュージーランドにやって来る前までは、モアの天敵は猛禽類史上最大のハーストイーグルだけでした。しかしマオリがモアを乱獲したことによって、モアとモアを餌にしていたハーストイーグルは15世紀までに絶滅してしまったと言われています。
サツマイモってどこから来たの?
マオリの人口が増えると、それぞれがイウィと呼ばれる部族を作り始めました。部族間での衝突も起こり、堀や柵を作ってイウィ(部族)を防衛しました。
日本でも戦国時代が幕を開けようとしていた頃、ニュージーランドも各部族間での対立が激しくなっていました。
日本と違い、結局国として統一されることのなかったニュージーランドは、その後3世紀から4世紀に渡って、国内の内戦を終結させることができませんでした。
それが後ほどのイギリスやフランスなど、欧州列強国による植民地支配の影に隙を与えていくことになります。
メモ
ずっと後の話になりますが、イギリスとしては、イウィ(マオリの部族)の対立の激しさを見て、マオリのマオリによる国家形成は不可能であることを見抜き、それを前提とした植民地化を進めていくことになります。
撮影:Destination Rotorua
初めてヨーロッパ人がこのアオテアロアにやって来たのは1642年のことで、オランダのアベル・タスマンがその1人目です。タスマン一行は上陸の際、マオリからの敵対的な応戦に遭い、乗組員の4名が死亡しています。なお、マオリも1人死亡しています。
タスマンは当初この地をチリと判断しましたが、翌年の別のオランダ人ヘンドリック・ブラウエルによってチリではないことが判明。ヘンドリックはこの地を“Nova Zeelandia”(ラテン語で新しい海の土地の意味)と名付けました。
参考
以降100年以上、アオテアロア(ニュージーランド)にヨーロッパ人が来ることはありませんでした。
撮影:James Heremaia
タスマンの上陸から1世紀以上経って、クック船長(ジェームズ・クック)が訪れ、”New Zealand”と命名しました。クック船長に続いて、数多くのヨーロッパ人が捕鯨や貿易の経由地として訪れることになります。
彼らはヨーロッパの武器や金属をマオリの水や食料、木材と交換しました。
こうしてヨーロッパからもたらされた銃によって、マオリのイウィ(部族)間の争いは激化、1830年まで、ないしは1840年までに4万人のマオリが死んだとされています。
国内の内戦でマオリが疲弊していた頃、フランスがニュージーランドに上陸します。フランスの上陸に脅威を感じたマオリはイギリスに庇護を求めます。
フランスの侵略からニュージーランドを守るため、1834年にはイギリスからマオリの旗が贈られ、1835年にはイギリスの後ろ盾でマオリの”独立宣言”がなされました。
そして1840年、マオリは主権をイギリスに譲渡することになります。これがワイタンギ条約(1840年2月6日)です。
ワイタンギ条約は第一条で主権をイギリスに譲渡することを記載していましたが、第二条でマオリの土地を保証(売却する際の売却先はイギリスに限定し)ていました。そのためワイタンギ条約の署名には500人ものマオリの首長の署名が集まりました。
現にこの時代のマオリの人口は8万人です。
首長が500人ということで、各イウィ(部族)の首長1人が治めている村や人口は(80,000÷500=160)たったの平均160人です。
これがイギリスとマオリの当時の力関係の全てを物語っていると言ってもいいくらいかもしれません。
このワイタンギ条約が元で、すぐにマオリ戦争(イギリスVSマオリ)に発展していくわけですが、
部族間の結束がなかったために、それぞれの部族がまとまり無くイギリスに立ち向かったところで太刀打ちできるわけもありません。
しかしながらマオリ戦争が20年以上も続いたことも、それぞれの部族がそれぞれ勝手に反乱し続けていたから、という理由で説明がつきます。
国としての司令塔がいないので、どこかの首長が降伏しても、他の首長が全員降伏する、ということにはならないのです。
対立している他のイウィが負けたからと言って、自分たちには関係ない、イギリスに不満があるから反乱する、そういうことが20年以上続いたことになります。
1840年に約2000人しかいなかった入植者(主にイギリスからの移民)は1858年頃にマオリの人口を逆転します。その後も減少していくマオリとは相反して、1900年頃にはマオリがかつての約半分以下の4万6千人なのに対して、移民は77万人に達しています。人口からもニュージーランドがイギリス色に塗り替わっているのがよく分かります。
※データの参照:ニュージーランド大百科 (Te Ara: The Encyclopedia of New Zealand)。
入植者や政府は羊毛を輸出するために、ワイタンギ条約にのっとりマオリから土地を大規模買収していきます。
ワイタンギ条約締結から5年もすると、この条約が自分たちの土地を保証するものではなく、イギリス政府が自分たちに行っている土地の売買は永遠に土地が帰ってこないことだとマオリは気づきます。
これが約四半世紀続いたマオリ戦争の概要です。
グラフの通り1858年には人口でも入植者はマオリを抜いています。
もちろん人口なんて本当は関係なく、19世紀世界最強の覇権国家だったイギリスに勝てる国などどこにもあるわけ無かったのですが、マオリも例外ではなく、1872年には完全に鎮圧されます。
注意ポイント
長い年月がかかったのはこれは各地で置きていたゲリラ的な反乱に近かったためです。ワイタンギ条約の直前まで部族間で内戦をしていたことからも分かるように、マオリは一枚岩とは程遠く、各部族対入植者(イギリス政府)というのが実態に近かったと思われます。
しかしながら勝てば得て、負ければ失うのが戦争です。このマオリ戦争の結果、マオリの土地だったアオテアロア(ニュージーランド)は9割が入植者(イギリス)のものになりました。
現在のマオリの人口は79万人です。
ほとんど全ての人がニュージーランドに住んでいます。
これは初期の7艦隊からやってきて、一旦12万人まで増え、その後部族間の対立激化やイギリスとのマオリ戦争で8万人や5万人弱まで減った歴史を見てきた私達としては、かなり大きい数字に見えます。
イギリスがやって来る前までは約千年弱かけて12万人までしか増加しなかった人口がワイタンギ条約を締結した1840年からおよそ150年程度で79万人まで激増しています。
この原因はイギリスから持ち込まれた新しい農作物、技術力によって国力増強・経済発展を遂げたことがかなり大きいと言えるでしょう。
①ポイントコラム
突然ですが、皆さんマオリ語でこんにちは! は何というかご存知でしょうか。
正解はKia ora!(キア・オラ!)と言います。
へーそうなんだ、となりますよね。でもこれ、ちょっとまってください。日本語では「こんにちは」、中国語では「你好!」、タイ語では「สวัสดี」、英語では「Hello」、マオリ語では「Kia ora」。
あれ、日本語も中国語もタイ語もそれぞれ違う言葉で表記されているのに、マオリ語はアルファベットで書かれていますね!
そうなんです。マオリ語はアルファベットで書くんです。
え? マオリがアルファベットに触れたのってイギリスが来てからだよね? それまではどうしていたの?
という疑問が湧いてきます。ここまで歴史を見てきたあなたなら気づいたかもしれません。はい、そのとおりです。マオリには読み書きの文化は無かったのです!
それがイギリスの入植に伴い、読み書きを開始。マオリ語がアルファベットで書くこと、マオリ語の読みがほとんどローマ字読みに近いのは、発音が先で、それにアルファベットを当てはめたからです。
「こんにちは」は「Kia ora」だよ、が先ではなく、こんにちはってキアオラって言ってる(聞こえる)な、じゃあ「Kia ora」だろ、っていうのが、マオリ語の識字の形成になります。
これによってマオリは口頭以外の伝達手段をイギリスの植民地化の進行とともに得ていくことになりました。
ここまで見てきた通り、マオリはもともと狩猟文化でした。かつて人類がマンモスを滅ぼしたのと同じ様に、ニュージーランドに住んでいた大きな鳥を食べ尽くし、他には貝や魚、植物、他にはクマラと呼んでいるサツマイモを食べていました。
マオリの伝統的な食事としては「ハンギ」があります。
ハンギはマオリのご馳走で、地面に掘った穴の中に焼いた石を入れ、その上に湿らせた布を敷き、葉(現代ではアルミホイル)で包んだ食材を置き、土を被せて待ちます。
そのあと4時間もすれば食材に熱が通り、美味しくご馳走を頂くことができます。
Credit: James Heremaia
マオリのハカはニュージーランドのラグビーチーム”オールブラックス”のものが非常に有名ですね。日本で行われた2019年のラグビーワールドカップでも大きな注目を集めました。
もともとマオリにとってのハカはイウィ(部族)同士の挨拶の儀式みたいなものでした。イウィ同士が出会う時に披露したり、イウィ間での戦いの前に士気を高める目的で行われたりしました。
Credit: James Heremaia
それはウォークライとして取り入れられている現在のラグビーのハカと同じ意味合いですね。
現代でもハカはラグビーの他、結婚式や誕生日などめでたい場面で披露されることがあります。
ラグビーのハカからハカは男性限定のイメージですが、女子ラグビーチームも男子チームとは異なるハカを持っていますし、現代のハカに男性のもの女性のものということはありません。
もっともイウィ(部族)同士の争いの前にも使われていたハカですから、昔は男性メインの場面も多かったと思われます。その際は女性は後ろから掛け声をかけたり、手を叩いたりとハカに参加していたようです。
ハカの歌詞や意味、マオリ語の解説も動画を見ながら説明しています。動画の迫力は一見の価値があります。ぜひ立ち寄ってみて下さい。
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マオリといえばそのタトゥーが有名です。
タ・モコとはマオリのタトゥーのことで、男性の顔や女性の顎に入っているのが特徴的です。
日本で顔に入れ墨を入れている人はそうそうお目にかかれませんが、ニュージーランドでは顔にタトゥーを入れている人は日常風景として見ることができます。
かつてのタ・モコはマオリの中での地位や身分を表す役割もしていたそうです。顔に入っている模様や場所で職業や技術、既婚などを表していたと言います。
ケープレインガはニュージーランドの最北に当たる岬で、マオリの聖地でもあります。
マオリの魂はケープレインガから旅立ち、探検家クペたちやマオリの先祖がそこからやってきたハワイキへ戻っていくと言われています。
ニュージーランドに訪れた際は是非立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
ここまでマオリについて徹底的に見てきました。約千年の歴史の旅はいかがでしたでしょうか。さて、まとめておさらいしてみましょう。
◎今回のまとめ◎
・ニュージーランドはポリネシア人の探検家クペによって発見された。
・マオリ人の先祖はハワイキと呼ばれる故郷から7隻の艦隊でやってきた。
・今でもマオリは自分の先祖がどの艦隊でやってきたのか遡ることができる。
・1840年にイギリスとマオリはワイタンギ条約を締結し、イギリスに主権を譲渡する。
・マオリの人口はイギリスがやってきた当時8万人から12万人であったが、現在79万人にまで増加している。
・マオリの伝統料理は”ハンギ”といい、お祝いの席などで用意される。
・ハカは古来イウィ(マオリの部族)同士が出会う場面で披露されていた。
・マオリのタトゥー(タ・モコ)は神聖なもので、かつては身分や社会的地位を表していた。
・マオリの魂はニュージーランドの北端ケープレインガからハワイキに還っていく。
以上、まとめになります。
ここまで読んでいただいたあなたは晴れてマオリマスターです! マオリについて分からないことはもう無いはず!
それではまた次の記事でお会いしましょう!